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「プロ野球の恩人」野村克也。

「野村克也氏、死去」のニュース速報を見てから1週間あまり。

コメントする野球人の多さ、そして、それぞれのコメントの多彩さに、改めて、野村氏の残したものの大きさを感じる。

長年ブログを書いていると、時折こうした残念なニュースについて書かなければいけないことがある。
(一昨年には、星野仙一氏衣笠祥雄氏。また、若くして亡くなった盛田幸妃氏について書いたことも…)

1970年代生まれの自分にとって、野村氏は、やはり「監督」という印象が強い。

自分が物心ついた時の南海は完全に低迷時代に入っており、野村氏の現役時代の栄光はのちに知ったこと。
また、解説者時代の功績として、よく「野村スコープ」が挙げられるが、所属していたテレビ朝日の中継数が当時はあまり多くなかったこともあり、その解説を聞く機会はそれほど多くはなかった。
どちらかというと、江本孟紀氏の「プロ野球を10倍楽しく見る方法」シリーズに時折登場するその姿が、野村氏を認識した最初かもしれない。

そんな野村氏が、関根監督の後を受けて、ヤクルトの監督に就任したのが1990年シーズン。
54歳と、当時としてはかなり高齢での監督就任。シーズンがまだ始まる前の時点で病気で入院といったニュースもあり、「果たして大丈夫なのだろうか?」というのが、当時の率直な感想だった。
さらに、監督就任最初の試合で、9回2アウトから篠塚の”疑惑のホームラン”で追いつかれた末のサヨナラ負けという、何とも散々なスタート。

それこそ、当時のヤクルトは、「大洋とヤクルトは、シーズン前からBクラス確定」といってもいい時代。
しかし、野村監督は、その弱かったヤクルトを変えていった。
1年目は5位に終わったが、2年目には3位に入り、11年ぶりのAクラス。
そして就任3年目の92年に、稀にみる”混セ”のなか、1978年以来、14年ぶりのリーグ優勝を果たす。

「ID野球」をスローガンに、あの弱かった「ヤクルト」を、優勝するまでのチームに育て上げた、その手腕は見事だった。
野村ヤクルトが語られる際は、広沢・池山らもともと能力の高かった選手をチームの「勝利」につなげる力にしたこと、また球界を代表するキャッチャーとなった古田の育成、さらには、田畑や小早川らの”野村再生工場”がクローズアップされるが、そんななか、個人的に印象深かった選手が、宮本賢治。
アンダースローのフォームが特徴的な投手だったが、防御率は毎年4点台以上という、典型的な「弱いチームの一軍投手」。
それが、野村監督の「何かを自分で変えないと変化しない」という言葉からサイドスローに変えたことで、ボールの力が見違えるように上がった。90年には、自身初の二桁勝利かつ防御率3点台。その後も、登板数こそ少なかったが、それまでの「出ては打たれる」という姿から一変。地味ながら、しばしば投手陣を支える活躍を見せた。

また、野村監督のヤクルト時代の功績は、ただ優勝させたというだけにとどまらない意味があったと思っている。
当時は、逆指名制度やFAが始まり、それこそ、巨人が資金力にものを言わせて戦力を巨大化させていった時代。
正直、個人的には、江川問題をリアルタイムで知らないといったこともあり、”アンチ巨人”という感覚は、子どもの頃からそこまでは無かった(巨人贔屓であることを笠に着る解説者や芸能人は好きではなかったが)。というよりも、”巨人ファンかアンチ巨人か”という二択の時代から、早く野球界が脱するべきだと思っていた。
ただ、この時の戦力を巨大化させていった時代の巨人は、本当に嫌いだった。しかも、選手を集めている割には戦力のだぶつきが多く見られ、とても適材適所とは言えない選手起用などもあり、戦力こそあれ、正直やっている野球のレベルは高いようには見えなかった。
そんな巨人に対し、ときに選手を引き抜かれながらも、さまざまな戦略で対抗し、優勝の独占を許さなかった(92・93年の連覇に続き、95・97年も優勝)ことは、「ただ有力選手を集めれば優勝できる」ような、つまらないプロ野球になることを阻止したという意味でも、その意義は大きかったと思う。

なお、野村監督のもとでの日本シリーズと言うと、92年・93年の西武との対戦が有名だが、その後、95年はオリックス、また97年は東尾監督下でのシリーズ初出場となった西武を、いずれも4勝1敗と圧倒したことも記しておきたい。

そして、98年のヤクルト監督退任後、すぐの阪神監督就任。
ここでの3年間は、結果的には3年連続の最下位。
一部選手との確執が報道されることもあったうえに、最後は、夫人の問題で辞任。就任時の熱狂からすると、その終わりは非常に寂しいものとなった。
ただ、今回の野村氏逝去のニュースに際し、当時スコアラーを務めていた三宅博氏が、99年、最下位に終わったシーズンオフ、全選手に反省文を書かせたうえで、それに対する所感と課題をそれぞれの選手に返す、という、野村監督のチーム再建にかけた熱意の一端を語っている。
遠山を松井キラーとして復活させたり、遠山-葛西スペシャルの披露、またキャンプでの「ピッチャー・新庄」が話題を呼んだのもこの時代だった。

その後、社会人のシダックスで監督となったものの、「もうプロ野球への復帰は無いかな」と思っていたなかでの、楽天監督就任。
70歳で、南海時代から数えて4球団目となる監督就任。
前年、勝率.281のチームを率いてのスタートとなったが、1年目の2006年は最下位ながら、勝率.356に。
そして2年目には67勝75敗の4位と、創設以来初めて最下位を脱する。
また、グラウンド内での監督という役割だけでなく、試合後、メディアが使いたくなるコメントを連発した”スポークスマン”としての仕事ぶりは見事だった。
これだけ「使える」コメントを発することができる野球人は、プロ野球の歴史をたどってもいないのではないか。
そして、就任4年目となる2009年、2位となり、球団創設5年目にして初のAクラス入りを果たす。
この楽天時代の功績は、一歩ずつ勝てるチームにしていったこともそうだが、選手への指導という点では、やはり山崎武司の大復活は外せない。
39歳での二冠(本塁打王・打点王)達成は、「ベテランになっても、考え方を変えることでこれだけ変わることができるんだ」ということを、まざまざと見せてくれた。
この時の楽天は、岩隈・田中・山崎らの主力級選手はもとより、高須、草野、中村真人、中島俊哉、有銘、川岸といった、野村監督が好きそうな選手も名を連ねていた。
また、コーチ陣では、ヤクルト時代の教え子、橋上秀樹が、ヘッドコーチなどで野村監督を支えた。橋上は、楽天での働きが評価されたこともあってか、その後、巨人や西武、さらには日本代表でも作戦コーチ的な役割を担った。

その楽天の監督を野村氏が退いてから10年。
2020年シーズンは、12球団中、半数の6人が野村監督のもとで選手生活を送ったことがある野球人である(高津・矢野・栗山・辻・三木・与田)。
それぞれ野村監督との関わり方は違ったであろうが、今回の報を受けて、一様に深い感謝の思いを述べていた。なかでも、現役時代は決して厚遇されたわけではなかった栗山(監督)が、自身の解説者として、そして指導者としてのキャリアのなかで、野村監督との出会いから学んだものの大きさを口にしていたのが印象的だった。

それこそ南海時代から数えれば、数多の野球人が、その影響を受けた野村氏。
直接その指導を受けていなくても、その著作を読んだ若い選手なども含めれば、様々な世代の選手たちに、有形無形のものを残したといっていい。

もちろん、その指導を受けた選手のなかには、突き放したように思える言いぶりに傷ついた選手もいたであろうし、その指導が合わなかった選手もいたであろう。
キャリアのなかでは、夫人の現場介入問題もあったし、その功績を称える記事のなかにあった「うならせるような語録が各界の賛同を得ているのは事実だが、実際は聖人君子の振る舞いばかりだったとは言いがたい」(週刊ベースボールONLINE)という評は、取材者から見た野村像のリアルかもしれない。

それでも、野球というスポーツにおいて、「考える」「知」というものの重要性を知らしめたという点で、そして、その発言で、プロ野球というものの存在をファンにわかりやすく提示したという点で、さらに、多くの野球人にその考え方を残していったという点で、プロ野球史のなかでも、最もプロ野球に貢献した人物といってもいいと思う。

個人的には、どんなに素晴らしい選手や指導者でも、「プロ野球」というものを”超える”存在ではないと思っている。

ただ、「野村克也」という人物は、プロ野球にとって、間違いなく「恩人」と言うべき存在だと思う。

by momiageyokohama | 2020-02-14 01:11 | 野球(全般) | Comments(0)

「読んだ方が野球をより好きになる記事」をという思いで、21年目に突入。横浜ファンですが、野球ファンの方ならどなたでも。時折、ボクシング等の記事も書きます。/お笑い・音楽関連の記事はこちら→http://agemomi2.exblog.jp/


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