三浦大輔のいた25年
2017年 02月 20日
それは、2年目にして一軍で勝利を挙げた、そのピッチングに対し、『プロ野球ニュース』で解説の達川氏が言った一言だった。
応援し始めてから、贔屓チームの優勝はおろか、「優勝争い」すら見たことがなかった自分は小躍りした。
「横浜大洋ホエールズ」から「横浜ベイスターズ」に名を変えて1年目となる1993年。
チーム名が変わり、ユニフォームも大幅に変わったとはいえ、それで強くなれるほど、プロ野球は甘い世界ではなかった。
当時の大洋(横浜)の先発と言えば、野村が2年連続で二桁勝利を挙げて、ローテに定着し始めはしたものの、他の投手を見ると、きわめて脆弱。その野村と同期で入団したドラフト1位・盛田も、なかなか一軍の戦力になれず(その後、中継ぎ転向で急激に道が開けるが)。
その前まで遡ると、遠藤が一人で、先発を支えていた印象。時折話題になる「エース候補」も、5勝もすれば「よくやっている」という印象で、二桁勝利など、まだまだ先の話。鳴り物入りで入ったドラフト上位投手が一軍に定着すらできないでプロ野球人生を終えることも多かった。
それこそ、高卒1年目にして、石井忠徳(のちの琢朗)が初勝利を挙げたときなど、まだ1勝しただけなのに、「ようやく、本当に活躍できる若手投手が現れた…」と期待した。それほど、投手がいなかった。
そんななか、5勝どころか、「10勝」も飛び越えて、「20勝」というプロの解説者のお墨付きを得た日には、色めき立たずにはいられない。
ただ、そのときはまだ、達川氏の解説が、2倍、あるいは3倍増しだということを知らなかった(笑)。
だいぶ前のことなので、もしかしたら「絶対、200勝しますよ!」と言っていたかもしれない。
ともかく、ファンとしては、幾人もの「エース候補」に何度となく裏切られてきた気持ちがあるなか、高卒2年目、しかも、入団時にはそこまで注目されていなかった、「三浦大輔」というその投手に期待をせずにはいられなかった(それまでは、野球で「三浦」と言えば、清原・桑田がいた時代に甲子園で活躍した、横浜商の三浦将明のイメージがあった)。
だが、そこから、どんどんとエースに上り詰めていく……、となるほど、そううまくは行かない。
2年目で3勝3敗(60 1/3イニング)を挙げたが、翌3年目は、2勝2敗(47 2/3イニング)。防御率も、前年の3.43から4.34へと落ちた。「結局、他の投手と同じ道をたどるのか……」という思いもよぎった。
ちなみに、この94年、先発ローテを主に担っていたのは、三浦と同期入団の斎藤隆(9勝)・有働(8勝)・加藤将斗(4勝)といった面々だった(前年、17勝でリーグ最多勝に輝いた野村はこの年、不調に陥り、わずか5勝に終わっている)。
これまでの大洋の多くの投手と同じく、「期待が期待のままで終わるのか」という思いのなか迎えた4年目(95年)。
三浦は、先発ローテを任されるまでになり、規定投球回にも到達する。挙げた8勝は、先発陣では斎藤隆と並ぶ、チームトップ。野村が前年に続き不調にあえぐなか、一躍、チームの先発の一翼を担う存在となった。
ただし、防御率は、まだ3.90。「安心して任せられる」というよりは、投手層の薄い横浜だから投げさせてもらっていた部分も否めなかった。
翌5年目の96年は、5勝10敗。防御率も4.93と前年から1点以上も落とした。それでも、2年連続で規定投球回を投げさせてもらったところに、首脳陣の期待の高さが感じられた(この年は、前年までの近藤昭仁監督から大矢監督に交代した年だったが、三浦への評価は変わらなかったように思う)。
この三浦の飛躍を支えたと言われたのが、「二段モーション」と言われる足を二度上げ下げするフォーム。
このフォームを始めたのは、プロ入り3年目からと言われる。確かに、プロ入りした当初の三浦は、とにかく打者に対して力任せに投げていた印象がある。前述の達川氏も、その「投げっぷりの良さ」を評価していた向きがあった。
代名詞ともなる「二段モーション」のフォームは、95年まで横浜の投手コーチを務めた小谷正勝氏と二人三脚で作っていったものだと言われる(その経緯については、小谷氏著の「小谷の投球指導論」(日刊スポーツ社)に詳しい)。三浦本人も、「小谷氏の存在抜きに、今の自分は無い」といったようなコメントを残しているが、そのきっかけは三浦からの提案だったというところに、「自ら考える」という、プロ野球選手として生き残るうえでの一つの才能が垣間見られる。
この二段モーションは、打者を幻惑するため、というより、しっかりとした「軸」と間、ぶれない視点をつくることで、投球を安定させる(制球力の向上など)という側面が大きかったようである。実際、セットポジションの際は足の上げ下げをすることはできないわけで、自らの投球の“礎“を築くための取り組みと言えた。
それが実を結んだのが、プロ入り6年目の97年の成績だろう。前年の大きな負け越しという経験を経て、10勝3敗(防御率は3.35)という好成績を挙げる。
ただし、この10勝は、決して打者を圧倒しまくって挙げたものではなかった。一球一球を丁寧に、そして、さまざまな工夫を凝らしながら、1イニング1イニングを抑えていった積み重ねが生んだ結果だった。
いみじくもこの年から就任した権藤監督が、三浦の引退試合で寄せたコメントに、三浦のピッチングのすべてが現れているように思う。
「真っ直ぐも、スライダーも、シュートも、カーブも、4つが一つになって、初めて三浦として出来上がる」。
実際には、ここにフォークだったり、カットボールだったりも加わるが、内外角の投げ分けも含めて、それらすべての精度が高まったところで、「三浦大輔としての完成形」が出来上がると言えるだろう。
なお、この年は、自分が応援し始めてから初めて、横浜(大洋)が2位になった年でもあった(チームとしては18年ぶり)。シーズン終盤でのヤクルトとの首位攻防戦では、こてんぱんにやられたものの、「来年は、もう優勝しかない」という機運のなか、翌シーズンへと移っていく。
98年も、三浦は開幕から好調だった。復調を遂げた野村らとともに、先発ローテをしっかりと守り、勝ち星を重ねていく。ただ、これからシーズンラストスパートという8月下旬に、肝機能障害でチームを離脱。最多勝も狙える位置にいただけに、少し勿体ないシーズンとなった。
それでも、チームは、38年ぶりの優勝。最終成績は、12勝7敗、防御率3.18。プロ入り7年目で、主力投手として、その美酒を味わうこととなった。
翌99年は、川村・斎藤隆・森中を除いて、チームのほとんどの投手が成績を前年に比べて落としたシーズンとなったが、三浦も、9勝10敗、防御率4.27と成績を落とした。
ただ、前年、シーズン途中で離脱した影響が心配されるなか、前年より多い175イニングを投げたことで、体力面での不安は払拭されたように思う。
続く2000年(権藤監督の最終年)、2001年(森監督1年目)は、いずれも11勝6敗、防御率においても安定した成績を残す(00年…3.32、01年…2.88)。
しかし、2002年は、チームの得点力不足もあって、勝ち星が伸びず。防御率は3.23だったが、4勝10敗と、自身三度目の二桁敗戦を喫することになった。さらにこの年は、シーズン途中で右肘の異常を訴え、オフに右ひじの骨片除去手術をした。
翌2003年5月、復帰後初登板となった試合で、勝利を挙げる。試合後、CS「プロ野球ニュース」に電話出演し、うれしそうに話していたのが印象的だった。ただ、シーズン通しての登板は15試合の登板に留まる(5勝5敗、防御率4.09)。
2004年も、規定投球回にこそ達したものの、6勝8敗、防御率も4.25と、本格的な復活まではまだ道半ばという感じだった。
この頃の横浜は、チームとしても、3年連続最下位と、閉塞感が漂っていたころ。苦しい状況のなか、主力投手としてチームの力になっているとは言えない三浦の心境はいかばかりだったか。
そして、2005年、その投球理論に定評のあった牛島和彦氏が監督に就任する。その影響がどこまであったかはわからないが、この年、三浦はキャリアハイとなる数字を残す。
勝敗数こそ12勝9敗だが、投げたイニングは214 2/3イニングでリーグトップ。そして、最優秀防御率(2.52)、最多奪三振(177)のタイトルも獲得した。この防御率2.52という数字は、2位の黒田の3.17を大きく上回る数字で、この年の三浦の安定度を物語る。球速こそ速くないものの、ストレートの伸びもあり、内角でどんどん勝負できるボールだった記憶がある。また、この年は、牛島監督の方針もあってか、キャリア最多となる10完投も記録している。
続く2006年は、防御率3.44、勝敗も8勝12敗と、防御率・勝敗数に関しては数字を下げた。ただし、2年連続で200イニングをマーク。肝機能障害や右肘の故障でシーズン途中に離脱した以前の「弱さ」みたいなものは完全に払拭された。
この年は、これまでの「二段モーション」が不正投球の対象とされるという、“投手生命のピンチ”とも成りかねない事態が起こった年でもあった。その影響もあってか、シーズン序盤は打ち込まれるシーンも目に付いたが、そこから、また新たにフォームを作り直していき、最終的には200イニングを投げきったというところに、三浦のプロとしての「意地」と「執念」を感じた。5月には、プロ入り15年目、32歳で、通算100勝も達成する。
新フォーム2年目となった2007年は、11勝13敗、防御率3.06。大矢監督復帰1年目のチームは、もう少しというところで、Aクラス入りを逃し、この年からセ・リーグでも始まったプレーオフに歩を進めることはできなかった。
2008年、再びチームは最下位に。三浦自身も、7勝10敗、防御率3.56。イニング数は、規定投球回ぎりぎりの144イニングと、決して満足とは言えない成績となった。
そして、シーズンオフに、FA宣言をする。
98年の日本一から10年間、優勝から遠ざかっており、直近7年間で5度の最下位というチーム状況。獲得に乗り出していた阪神は、片岡、金本、新井と次々にFAで他球団から主力選手を獲得し、さらには三浦自身が関西の出身、ということで、FAでの移籍はほぼ既定路線のような報道もされた。
しかし、三浦が迷いに迷った末に出した決断は、「横浜残留」。
「三浦大輔の原点は何かと考えたら、強いチームを倒して勝つこと。強いチームに勝って優勝したい」というのが、最終的な決断の理由だった。
なお、残留会見前、阪神に対しても、朝の飛行機で関西にわたり球団事務所に出向き、きちんと対面したうえで、断りの意思を伝えたとのことである。
その夜、各スポーツニュースにゲスト出演していたその表情には、晴れ晴れとした思いと、翌シーズンへ向けた意気込みを感じた。
ただ、いくら「男気を見せて残留した」といっても、その後、確固たる成績を挙げなければ、単なる美談で終わってしまう。
翌2009年の成績は、11勝11敗、防御率3.32。投げたイニングは195イニングと、再び200イニングに迫る投球を見せた。希望を託せる状況が本当に少なかったこの頃のチーム状況下において、そのマウンドでの姿を見て、「横浜に残ってくれてよかった」と思ったファンは、相当の数にのぼるだろう。
しかし、翌2010年は、プロ野球人生、最大の試練といってもいい年となった。
開幕戦に向けた最後の調整登板となる巨人戦で、8被本塁打14失点。予定されていた開幕投手も白紙となった。
シーズンに入っても、全くといっていいほど抑えられない。キレのない変化球を見送られ、苦し紛れに放った甘いストレートを簡単に打たれる試合が続く。
プロ入り19年目、36歳という年齢も相まって、「ここで終わってしまうのか」という思いもあった。
シーズン中盤は、長期にわたって二軍落ち。「これぞ三浦」という投球は戻ることなく、シーズンは終わる。シーズンを終えての成績は、3勝8敗。防御率はなんと、7.23だった。
だが、翌年の2011年、三浦は、絶望ともいえる状況から、徐々に復活を果たしていく。シーズン前半は二軍での生活を余儀なくされたが、7月から一軍のローテ投手として、再び一軍のマウンドに立つ。18試合で5勝6敗という数字は、チームのエースとしてはもちろん物足りる成績ではなかったが、防御率は2.91と復調の兆しを見せる。
続く2012年、プロ入り21年目となるシーズンで、三浦は再び、一年通して先発ローテの座を守り抜くピッチングを見せる。勝ち星こそ9勝(9敗)にとどまったが、完投数はリーグ1位の6を記録。防御率は2.86、イニングも182 2/3イニングと、38歳とは思えぬタフネスぶりを発揮する。7月には、通算150勝を自身7年ぶりとなる巨人戦勝利で飾る。この試合後のヒーローインタビューでの「横浜に残ってよかったです!」という言葉は、横浜ファンの心に刺さった。
翌2013年も、先発ローテでフル回転。統一球の飛びやすさが直近2年に比べて増したためか、9勝13敗、防御率3.94という数字には終わったが、前年に続き、180イニング近いイニングを投げ切った。
2014年は、自身の開幕からの不調もあったが、中畑監督が三浦の体調を慮っての起用という方針をとったこともあり、十分な休養をとりながらの一軍登板というシーズンになった。そのなかで残した成績は、5勝6敗、防御率は3.04。8月には、巨人戦での完投勝利などもあり、7年ぶり自身4度目となる月間MVPとなる活躍を見せた。
翌2015年も、一軍での登板間隔を空けながらの起用が続く。一軍初登板は5月に入ってから。その後、「さすが三浦」というピッチングも随所に見せてくれたが、プロ入り24年目のシーズンは、6勝6敗、防御率4.13という成績で終わった。
直近2年、徐々に登板間隔が空く起用となったなか、ラミレス新監督のもと始動したプロ入り25年目の2016年シーズンは、なかなか一軍での登板がまわってくることはなかった。二軍での登板でも、いい数字を挙げているとは言い難いなか、一軍の初登板は7月に入ってからだった。
しかしその試合で、初回6失点。1試合で二軍に落ちた後、再び一軍での登板機会がめぐってきたのは、9月に入ってから。この試合でも初回に2失点を喫したが、2回以降は抑えていく。だが、試合中盤、ピンチをむかえ、5回を投げ切ることなく降板。その後、三浦大輔は、球団に引退を申し入れた。
現役最後の登板は、チームの最終戦での登板となった。三浦が打たれても打たれても、点を取り返す打線。最後の登板での勝利投手という、格好良すぎる花道も考えたが、ヤクルト打線も真剣勝負で立ち向かい、三浦に襲い掛かる。しかし、失点を重ねても、ラミレス監督は三浦を変えなかった。
「この試合は三浦のための試合」。そんな思いが詰まったような最後の采配には、これまで三浦が横浜で成し遂げてきたことへの敬意を感じた。
自身最多失点という結果にはなってしまったが、7回、最後のマウンドを降りる三浦への横浜ファンの思いは、ほぼ同じものだっただろう。
こうして、三浦大輔の25年間の選手生活は幕を閉じた。
通算成績は、535試合、172勝184敗。
冒頭で紹介した達川氏のコメントどおり、シーズン20勝も、そして200勝もマークすることはなかったが、23年連続勝利は、プロ野球最長記録(他に、工藤、山本昌)となった。
25年間で投げた3276イニングは、NPB歴代18位。そして、140km前後のストレートを擁して奪った2481三振は、NPB歴代9位の記録である。
とにかく生え抜きの先発投手が育たないチーム状況のなか、その投手陣を孤軍奮闘、支えてきたといってもいい三浦。
その25年間(1992~2016年)において、横浜(大洋・DeNA)で規定投球回に達した投手の一覧は下記のとおりである。
92年 岡本透、盛田、田辺
93年 野村、斎藤隆
94年 斎藤隆、有働
95年 斎藤隆、三浦
96年 斎藤隆、野村、三浦
97年 川村、野村、三浦
98年 野村、三浦、川村、斎藤隆
99年 斎藤隆、川村、三浦
00年 三浦、△小宮山、川村
01年 三浦、△小宮山
02年 吉見
03年 ドミンゴ、ホルト
04年 マレン、三浦
05年 三浦、△門倉、△土肥
06年 三浦、△門倉
07年 三浦、△寺原
08年 三浦
09年 三浦
10年 △清水直、加賀
11年 高崎
12年 三浦、高崎
13年 三浦、三嶋
14年 △久保、井納、モスコーソ
15年 -
16年 石田、井納
(△は移籍入団、順番は投球回数順)
こうしてみると、キャリア前半こそ、野村、斎藤隆といった投手たちがいたが、キャリア中盤は、移籍入団の投手を除くと、ほぼ一人で先発陣を支えてきていたといってもいい(特に、03~09年は、三浦以外、年間通じてローテに入る生え抜きの先発投手が誰もいないという状況であった)。
ただ、前述したように、三浦は、そのもって生まれたポテンシャルで打者を凌駕するといった投手ではない。
そのピッチングを、「○○派」といった分類でいうと、どういう表現になるのだろう、と考えたことがある。
打者に真っ向から向かっていく“姿勢”の部分をとれば「本格派」と言えるかもしれない。ただ、実際は、あらゆるボールを使って、どうにかして抑えていくというピッチングであり、「本格派」とは言い難い部分がある。
では「技巧派」と言えるか? ただ、技巧派という言葉から受けるイメージとも、またちょっと違う気もする。打者を手玉にとるような「技術」を前面に出したピッチングとも違うし、正直、追い込むまで完璧なピッチングをしていても、最後の勝負球が甘く入り、痛打を喫するという場面も決して少なくはなかった。
では、何と評すればいいのか?
個人的には、造語にはなってしまうが、「苦心派」といった表現が、一番その表現を表しているように思える。
ヒットを打たれることもある。ときに、ホームランを浴びることもある。それでも、気持ちを切らさずに、次のバッターを打ち取ることにまた全力を傾けていく。しかも、あらゆる球種を使って、そして、もしかしたら、テレビ画面ではわからないぐらいの細かな駆け引きも使いながら。
気持ちのうえでは、「打てるものなら打ってみろ」という思いはあったかもしれないが、そのベースには、「いかにすれば、打者を打ち取れるのか」という思考がはりめぐらされている。そんな、打者を打ち取るための「苦心」によって成り立っているのが、三浦大輔のピッチングだと感じた。
また、三浦の特筆すべきは、その人間性かもしれない。
マスコミの記事だけで選手の印象を決めつけることは好きではないが、三浦について、ほとんどの関係者がその人間性を褒め讃えている。
なかでも印象的だったのは、アテネ五輪のときに同じメンバーで、結構言うことは言う印象が強い金子誠(元・日本ハム)が、自身のネットラジオで、三浦の人間性についてベタ褒めしていたこと。その後はあまり接点はないとのことだが、それでもかなりの好印象を受けたというのは、よほど印象的だったのだろう。
リーゼントという一見怖い風貌はしているものの、その根底に流れているのは、「野球への謙虚さ」だったり、「他の選手への気遣い」だったり、「ファンを大切にする心」のように感じる。
自身の経験になるが、宜野湾キャンプを見に行った際、その日の練習を終えた三浦が、午後から即席のサイン会を開き、その後、おそらく1時間以上もペンを走らせていたということもあった。
引退後は、横浜のコーチとしてチームに残るとも思われたが、一度チームを出て、外から野球を見る道を選択した三浦。
試合での解説を聞くことはまだあまり無いが、日刊スポーツでのキャンプリポートで、バンデンハークの投球動作について細かく解説していた記事では、25年間プロで生き抜いてきた選手の「着眼点」の細かさを感じた。
引退試合後のセレモニーでは、「三浦大輔は、ずっと横浜です。ヨロシク!」という言葉を残したが、横浜以外のチームの状況、さらには野球以外の世界も見ることで、さらに人間として魅力のある「三浦大輔」として、横浜に戻ってきてほしいという思いがある。
おそらく、これまで、あるいはこの先も、最も見続けてきた選手であろう三浦大輔が、これからも「野球の素晴らしさ」を伝える存在であり続けてくれることを願ってやまない。