15分で振り返る、「横浜・大洋・DeNA」32年史
2015年 05月 05日
今回は、ちょっと時間を遡って、「これまで」について。
以前、10年ほど前に、ホームページをやっていたとき、「大洋・横浜18年史」という項目を設けていたのですが、それから月日もだいぶ流れたので、久々に「振り返り」を。
最近、横浜DeNAファンになった方も、80年代からのファンの方も、はたまた、秋山・土井の頃から見てるぞ、という方も、ちょっと長いですが、「これまで」の横浜大洋→横浜→横浜DeNAの道のりを。
なお、振り返りのスタートは、おぼろげながら、自分の記憶がある1983年からにします(プロ野球自体は、その前年の日本シリーズ(西武vs中日)ぐらいから記憶があるのですが)。
※【年度の後の表記は、監督(〔 〕内は何年目という意)・順位・勝率・首位とのゲーム差】
1983年 関根潤三 〔2〕 3位 .500(-11.0)
関根監督2年目のシーズン。なお、この前年が、長崎と田尾の首位打者争いで大洋が5打席連続敬遠をした年。クリーンアップは、長崎・レオン・田代。もう一人の外国人はトレーシー。70年代生まれの大洋ファンは、クロマティより先にトレーシーでクラウチングスタイルを知った? キャッチャーは、辻恭彦と加藤俊夫の併用。最多勝(18勝)の遠藤が沢村賞も獲得。阪神との争いを制し、4年ぶりのAクラスに。
1984年 関根潤三 〔3〕 6位 .374(-30.5)
前年のAクラスから打って変わって勝率3割台の最下位。遠藤の17勝17敗、276 2/3イニングという数字が凄い。この年に移籍してきた若菜、前年に移籍の加藤博一がほぼレギュラーに。入団4年目の高木豊が盗塁王獲得(58盗塁。実は獲得したのはこの年のみ)。関根監督は3年で辞任。
1985年 近藤貞雄 〔1〕 4位 .483(-14.5)
前々年まで中日の指揮を執っていた近藤貞雄監督が就任(この年ですでに60歳)。この年を一言で表すなら、「スーパーカートリオ」。一番・高木豊、二番・加藤博、三番・屋鋪の3人合わせて148盗塁(42、48、58。ちなみに盗塁死は20、18、13で計51)。ただ、チームは4位。鳴り物入りで入団した竹田光訓も一軍登板無し。投手陣は、相変わらず遠藤(と抑えの斉藤明夫)の孤軍奮闘が続く。
1986年 近藤貞雄 〔2〕 4位 .448(-20.0)
3年間、主軸を務めたレオンが自由契約となり(その後、ヤクルトへ)、ポンセ・ローマンが入団。ポンセは打率.322、27本塁打、105打点と活躍し、ローマンも打率10傑に入る(.291)。ただ、加藤博一がシーズン途中で怪我で離脱し、スーパーカートリオは、1年半で解体。日本ハムから移籍の木田勇がローテに入り8勝(13敗)を挙げるも、2年連続で4位。近藤監督は2年で退団。
1987年 古葉竹識 〔1〕 5位 .452(-22.5)
広島の監督として4度のリーグ優勝(3度の日本一)を果たした古葉竹識氏が、優勝請負人として監督に。ファンの期待も高まる。しかし、大物大リーガーとして獲得したレスカーノが、不振により、わずか20試合で退団。韓国から移籍の新浦が二桁勝利を挙げる(11勝12敗)も、戦力不足はいかんともしがたく、5位に。さらに、エース遠藤がシーズン最後、走塁中に右足アキレス腱断裂…。なお、ポンセが打点王を獲得。
1988年 古葉竹識 〔2〕 4位 .468(-20.5)
ポンセに次ぐ外国人として、パチョレックを獲得。レスカーノと違いメジャーでの実績は無かったが、これが大当たりでリーグ2位の打率を記録(.332)。野手陣では、シーズン開幕直前に山下が突然現役引退表明するという事態はあったが、ショート・高橋雅、サード・銚子が新「一・二番」として活躍。キャッチャーも、若菜から市川へ。そして長年抑えを務めた斉藤明夫に代わり、3年前のドラフト1位、中山がストッパーとなり、10勝(6敗)24Sの活躍(しかも、ストッパーながら規定投球回に到達)。やや希望を残しながら次シーズンへ。
1989年 古葉竹識 〔3〕 6位 .370(-36.5)
古葉監督、勝負の3年目…のはずだったが、主力選手の成績が軒並み、急降下。前年、2度目の打点王を獲得したポンセの打率・本塁打・打点が大きく下がり、前年3割近くをマークし、ショートでの無失策連続記録を作った高橋雅も、打率.224に急降下し守備でもエラーを連発。シーズン中盤からはシーズン7本塁打の「こけしバット」山崎賢一が四番に。ピッチャーも、ストッパー中山が防御率4点台。遠藤の復活への道のりも遠く、古葉監督は、結果を残すことができずに辞任。なお、この年、谷繁が入団(1年目は80試合、打率.175、3本塁打)。
1990年 須藤豊 〔1〕 3位 .492(-24.0)
一軍監督としての実績があった古葉監督とは対照的に、巨人の二軍監督として4連覇を果たしたキャリアを持つ須藤氏を監督に迎える。チームカラーが明るくなった印象の新監督1年目は、開幕カードの中日戦から激戦に(大洋:佐々木、中日:与田が開幕戦でデビュー)。ここを1勝1分けとしたチームは勢いにのり、前半戦は快進撃。その後、失速したものの、7年ぶりのAクラスに。横谷・清水のレギュラー起用、中山の先発転向、遠藤のストッパーでの復活など、色々と動きのある年だった。なお、この年の四番は、巨漢・マイヤー。
1991年 須藤豊 〔2〕 5位 .492(-10.0)
マイヤーに代わって獲得した新外国人・レイノルズが、打撃に守備に走塁に、果敢なプレーで、序盤から活躍。投手陣も、前年初の二桁勝利を挙げた野村弘樹が15勝(8敗)、中継ぎから転向した岡本透も二桁勝利(11勝7敗)を挙げたが、ストッパー2年目の遠藤は、あまり結果を残せず。代わって最後を締める役割を担ったのが佐々木主浩。ここから“大魔神への道”が始まる。チームは、前年ほどのインパクトは残せず、5位に。さらに、追い打ちをかけるように、未完のエース・中山が事件を起こし逮捕、そして解雇。
1992年 須藤豊 〔3〕→ 江尻亮 5位 .469(-8.0)
大洋の監督・鬼門(?)の3年目。残念ながらその前例を踏襲するかのように、レイノルズ・野村の不振などもあり、序盤から負けが込み、シーズン早々に須藤監督は休養。代わって、江尻ヘッドコーチが監督代行に就任。決して豊富とはいえない戦力を、うまくやりくりする采配は、徐々に軌道に乗っていき、最終的には首位と8ゲーム差の位置まで挽回。シーズン途中で中継ぎに転向した盛田は2.05で最優秀防御率を獲得。盛田-佐々木のリレーは他球団の脅威となる。また、新外国人シーツは打点王(しかし1年で退団)。そして、そのオフ、「横浜大洋ホエールズ」から「横浜ベイスターズ」へ。
1993年 近藤昭仁 〔1〕 5位 .438(-23.0)
前年の江尻監督の評価が高かっただけに続投を望む声もあったが、最終的に、1960年の優勝メンバーでもある近藤昭仁(前・巨人ヘッドコーチ)が監督に。ユニフォームも一新され、ファンとして少し戸惑いを感じつつ、期待感も。外国人も一新され、ブラッグス・ローズが入団。シーズン当初は全く打てなかったブラッグスも徐々に打ち始め、ローズとともに打線を牽引。開幕投手に有働を持ってくるなど、これまでに無く斬新な采配を振るう近藤監督のもと、序盤戦は勢いのある戦いを見せたが、ブラッグスの故障離脱もあり、中盤以降、失速。新球団1年目は5位に終わる。なお、石井琢がサードのレギュラーに。一方、オフには長年、大洋の主力だった高木豊・屋鋪、山崎・市川・松本・大門らが解雇に。
1994年 近藤昭仁 〔2〕 6位 .469(-9.0)
FAで、巨人から駒田を獲得。その駒田はローズ・ブラッグスの後の五番に入る。続く六番は、前年レギュラーを獲得した元南海・畠山。一方、ピッチャーの方は、2年連続で、開幕投手・有働。ただ、実質的な柱は、斎藤隆。防御率10傑に入るピッチングを見せたが、勝ち星は9勝止まり。それでも、田辺、加藤将斗といったところをうまく起用、前年大不振だった盛田が、故障した佐々木の代役として前半戦ストッパーを務めたこともあり、勝ちを拾っていく戦い。この後の横浜の中継ぎを語るに欠かせない島田・五十嵐も、徐々に戦力化。最終戦に勝てば4位の可能性もあった、首位から9ゲーム差での最下位という、一応、次シーズンに希望が持てる内容でシーズン終了。
1995年 近藤昭仁 〔3〕 4位 .508(-16.0)
近藤監督、勝負の3年目。開幕時の石井・進藤の「一・二番」は、シーズン途中から2年目・波留と石井の一・二番に。4年目の鈴木尚典も、シーズ中盤からレギュラーとして三番で出場。谷繁は、相変わらずの秋元との併用出場だったが、4年目の三浦が先発ローテへ。のちに優勝メンバーとなる選手たちが頭角を現してきたが、ブラッグスがやや不振。先発で二桁勝利を挙げた投手もゼロで、近藤監督のもと、3年連続Bクラスに終わる。続投を希望した近藤監督だったが、契約満了で退団することに。なお、佐々木が7勝2敗32S、防御率1.75で、2度目の最優秀救援投手獲得。個人的には、この年(27歳)の佐々木が、内容的には一番だったと思う。
1996年 大矢明彦 〔1〕 5位 .423(-22.0)
近藤監督に代わり、1993年から横浜のバッテリーコーチを務めていた大矢明彦氏(現役時代はヤクルト一筋)が監督に就任。キャンプでの、石井・進藤・ローズのコンバート(石井:三→遊、進藤:遊→二、ローズ:二→三)、盛田の先発転向は話題を呼んだ。ただ、結果的に、コンバート・先発転向は成功せず(石井・ショート、進藤・サード、ローズ・セカンドのままという形に)。それでも、4月は快進撃を見せたが、斎藤隆←→五十嵐の、先発・中継ぎ配置換えあたりからおかしくなり、5月以降はずっと低迷。1ゲーム差で辛うじて最下位は免れたものの、シーズン通してストレスがたまる結果に。なお、斎藤隆が初の二桁勝利(10勝10敗)。鈴木尚、佐伯も初の規定打席に到達。
1997年 大矢明彦 〔2〕 2位 .533(-11.0)
前年のどんよりした空気が若干残るなか、シーズン初めから、盛田・野村・ルーキーの川村・2年目の関口の4人で先発をまわすという緊急体制。前年の悪夢が頭をよぎったが、この年から投手コーチに権藤博氏が就任。このことが、その後の望外の優勝をもたらすことに。結果的に、チーム防御率は1点近くアップ(4.67→3.70)。打線の方は、ブラッグスが退団したものの、石井琢・波留・鈴木尚・ローズ・駒田・佐伯(または、あまり打たなかったけどセルビー)・進藤・谷繁というラインアップがほぼ確立し、総じて守備もいい選手が並ぶ。中盤以降、これまでになく勝ちを続け、「もしかして…」と一瞬夢を見たが、首位ヤクルトとの直接対決で、石井一久のノーヒットノーランという強烈なしっぺ返しを喰らう。それでも、長年、手が届くことすらなかった「優勝」を意識して終わったシーズン。そのオフ、球団は大矢監督との続投を選ばず、権藤コーチの監督就任を決めた。
1998年 権藤博 〔1〕 優勝 .585(+4.0)
「優勝」をはっきり意識して迎えたシーズン。かの暗黒時代でも結構苦手だった阪神相手に、開幕3連勝。その立役者はマラベ。夏の浜スタ巨人戦、石井琢・波留の2戦連続サヨナラ打。帯広での、中日戦6点差同点劇。下関での、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった小林幹英からの駒田の満塁弾。福山の広島戦での15回表の一挙8点攻撃。“ひげ魔神”五十嵐の三者連続三振。佐々木が2年ぶりの黒星を喫した翌日の進藤のファインプレー。挙げればキリが無いほどの、印象的過ぎる試合のオンパレードで迎えた、10月8日。敵地、甲子園での進藤の逆転打。そして、佐々木の最後の締め。38年ぶりという途方もなく長い期間を経ての優勝は、いまは17年前の出来事に……。その後の日本シリーズでの、浜スタの揺れには、横浜ファンの“怨念”が。石井琢朗のセーフティーバントに始まった西武とのシリーズは、斎藤隆の完封、第5戦での劇勝(8・9回で10点取っての17-5)もあり、4勝2敗で横浜が勝利。もちろん、こちらも「38年ぶり」となる日本一に。
1999年 権藤博 〔2〕 3位 .526(-10.0)
38年ぶり優勝の熱狂から明けての99年。ファンとしても、やや気抜けの部分はあったが、打線は、前年以上に打ちまくった。チーム打率.294はセ・リーグ歴代1位。レギュラークラスは全員2割8分以上(最低が進藤の.286)で、準レギュラーのポゾ、中根も.297、.272。ローズの.369(首位打者)、37本、153打点(歴代2位)は、改めて見ても鬼のような数字。しかし、投手陣が軒並み崩壊(チーム防御率は3.49→4.44に)。佐々木の故障による離脱はもとより、長年、横浜の中継ぎを支えた島田・五十嵐が大きく成績を落としたのは痛かった。この年は二本柱(川村17勝6敗・斎藤隆14勝3敗)とようやく覚醒した森中、そして9勝の三浦・福盛のほぼ5人で投手陣を支えていた印象。そして佐々木はMLBへ。
2000年 権藤博 〔3〕 3位 .511(-9.0)
前年に続き、大負けはせずも、優勝争いにもほぼ絡まないというシーズン。6月には2000本安打を目前にした駒田が首脳陣批判し二軍降格という事態が起こる(その後、しばらく間を置いて復帰し、2000本安打達成)。その他にも、サインを出さない権藤監督へ選手が不満を抱いているといった報道もあり、何か燻ったものを抱えてのシーズンという印象だった。そうした中、突如頭角を現してきたのが、2年目の金城。4月中旬に登場するやいなや打ちまくり、3割7~8分の打率をキープ(最終的には.346)。史上初となる新人王・首位打者のダブル受賞。もう一人輝いたのがルーキー・木塚。ストッパーとして、キレのあるボールを投げ込む姿は躍動感に溢れていた。そして、優勝の功労者・権藤監督は3年で退任。また、この年より、ファームが「湘南シーレックス」として一軍と差別化される。
2001年 森祇晶 〔1〕 3位 .507(※-10.0)※この年は勝利数によって順位が決定
権藤監督に代わって、黄金時代の西武を率いた名将・森監督が就任。森氏の就任は、以前も噂になったことはあり、横浜(というか大堀球団社長?)にとっては待望の監督就任となった。キャンプから、バントをしない前任の権藤監督との対比が大きく報道されたが、その一方、前年限りでローズが退団。さらには長年、大洋(横浜)の外国人獲得策を支えた牛込惟浩渉外担当も退団。新たに獲ったドスター・ズーバーは2人合わせて、わずか11本塁打・54打点。進藤とのトレードで入った小川の活躍、斎藤隆のストッパー転向成功もあってなんとか3位に入ったが、チーム弱体化の足音は徐々に迫っていた。なお、野村が、生え抜きの投手としては斉藤明夫以来の100勝を達成したが、左肘故障の影響もあり、99年以降の3年間では計7勝にとどまり、翌2002年に引退。
2002年 森祇晶 〔2〕→ 黒江透修 6位 .363(-35.5)
親会社がマルハからTBSへ変更。その元年となったシーズンは、前年まで5年連続Aクラス(もちろん(?)球団史上初)を続けていた横浜のファンにとって、6年ぶりに、負け負け負け…を味わされるシーズンとなった。主力打者は軒並み調子を落とし、3年前の首位打者・金城は打率.170(チーム打率は.240まで低下)。投手の方も、力の無い左投手を左の強打者にぶつけては痛打を浴びるという場面が目立った。横浜弱体化の一因に、この森監督への監督交代を挙げる人も多いが、個人的には森監督だけの責任ではないと思っている。ただ、権藤前監督本人がその後、言っているように、それまでやっていた野球との振れ幅があまりに大きすぎたのは否めない。また、新外国人・グランの見切りの遅さ、そして何より、谷繁を出ていかせてしまった(この年から中日へ移籍)のは痛かった。結局、森監督は9月下旬、3年契約の2年目にして実質的な解任(このとき、球団外部からの圧力もあっての解任というのも後味が悪かった)。そして、シーズン最後の1ヶ月、古木が9本塁打の大爆発。横浜ファンは、一時の夢を見る。
2003年 山下大輔 〔1〕 6位 .324(-42.5)
80年代からのファンにも記憶のある、生え抜きスターの監督就任。その風貌も相まって、明るいシーズンを…と期待したが、前年をさらに下回る弱さ。3・4月の成績は5勝20敗。1回勝っただけで、山下監督が涙目になるという状態。守護神候補ホワイトサイドは開幕から打ち込まれ、わずか13試合2セーブで退団。この年当たりから、飛ぶボールになったこともあって、防御率は4.80。守備面でも、セカンド・村田、サード・古木という、ピッチャーからしたら相当厳しい布陣(ファーストも、40本塁打は放つも、守備面での貢献は厳しいウッズ)。その村田・古木は、両者20本塁打以上を放つも、打率は.224、.208(そして古木、伝説の22本塁打37打点)。首位打者・今岡の打率(.340)を、勝率が下回るという悪夢のシーズン。
2004年 山下大輔 〔2〕 6位 .437(-20.0)
前年の開幕とは打って変わり、4月は勝ち越すも、その後はまた負けが込み、結局終わってみれば2年連続の最下位に。この年は、多村がブレイクし、40本塁打をマーク。村田・古木の若手が大きく数字を落とす一方、種田、佐伯のベテラン勢が、ともにレギュラーとして規定打席3割をマーク(種田のガニ股打法も有名に)。投手陣では、佐々木が5年ぶり復帰も、シーズン途中の故障で25試合の登板に留まる。7月入団のセドリックらの7勝がチーム最多勝では、いかんとも(自由枠で入団のルーキー森・吉川も戦力にはならず)。前年より勝率を1割上げるも、山下監督は2年で退任。
2005年 牛島和彦 〔1〕 3位 .496(-17.0)
解説者としてその野球理論には定評のあった牛島氏が、コーチ経験を経ず、12年ぶりの現場復帰。投手陣強化が課題のチームだけに、その手腕への期待は大きかった。その期待どおり、三浦と移籍の門倉が、最多奪三振を分け合う活躍を見せ、先発に転向した土肥を含めた3人が二桁勝利。外国人投手に関しても、おそらく球団史上初めてシーズン通して活躍を見せたクルーンが、佐々木に代わってストッパーを務め、26S(防御率2.70)を挙げ、左の中継ぎホルツも、要所でいい働き。2年連続40本塁打以上のウッズが中日へ移籍した打線は、「一番・石井」「四番・佐伯」を1年通して変えないなど、ほぼ固定メンバーで戦い、野手のレギュラー8人が規定打席到達(キャッチャー相川も、初の規定打席到達)。このブレを少なくした起用が、安定した戦いを支えたともいえるし、一方でもう一歩上位に行けなかった要因とも(四番を務めた佐伯は、打率.272、19本塁打と、四番としては少し物足りない数字)。なお、長年、横浜投手陣を支えた佐々木が、7月の地元・仙台の登板で引退(横浜・大洋で挙げたセーブは252。通算の防御率は2.41で、奪三振率は12.2)。
2006年 牛島和彦 〔2〕 6位 .408(-29.5)
前年、久々に及第点の成績を残したことに安心したのか、オフの補強が、ダイエーを自由契約となった佐久本と、横浜において伝統的に活躍率の低いドラフト上位左腕の高宮ぐらい、といったところに不安を感じつつ、シーズン突入。その不安は残念ながら当たり、開幕から連敗続き。その後も浮上することなく、直近5年間で4度目となる最下位に。前年3.68まで上がったチーム防御率も4.25まで下落。前年、安定を見せた木塚・川村・加藤武治・クルーン(「クワトロK」と命名される)のブルペン陣も打たれる場面が増える。打線では、佐伯、種田、多村が故障でほとんど活躍できなかった一方で、村田が自身初の30本塁打以上をマークし、6月からは四番に。高卒3年目の吉村も、26本塁打を放ち、数少ない横浜ファン期待の星に。結局、牛島監督は最下位の責任をとって辞意を申し入れ、わずか2年で退団(チーム強化方針についての球団との確執があったとの報道もあったが、真偽のほどは不明)。監督が3人連続して2年で辞めるという、他球団からすれば異常ともいえる事態に。なお、5月には、石井琢朗が2000本安打を達成。
2007年 大矢明彦 〔1〕 4位 .497(-9.0)
96年・97年と横浜を率いた大矢氏が、二度目の監督就任。前回の監督時には、やや動きすぎて失敗するきらいもあったが、再度の解説者経験を経て、期待感は高かった。シーズンに入ると、一進一退の戦い。開幕12試合目まで、勝ち負けが交互に並んだのが象徴的だが、その後も、5月中旬から6月上旬まで1勝14敗と負けが込んだと思いきや、その後の、6月下旬までは、13勝2敗1分けと、諦めない戦いを続ける。ただ、8月以降失速し、終盤、阪神とプレーオフ(この年からセ・リーグでも導入)争いをするも、最後引き離され、4位に終わる。打線では、巨人から移籍の仁志が機能。村田が36本塁打で初のホームラン王。ピッチャーでは、ソフトバンクから移籍の寺原が二桁勝利(12勝12敗)。門倉の人的補償で巨人から移籍の44歳・工藤も、7勝を挙げる。
2008年 大矢明彦 〔2〕 6位 .338(-36.5)
横浜の監督・鬼門の2年目(少し前は3年目だったが、いつの間にか2年に短縮)。やはり、というか、開幕から負けまくる。先発陣は、軒並み不振。抑えとして考えていたヒューズも全くその任を果たせず(シーズン中盤からは、寺原が抑えに)。チーム防御率4.74はリーグぶっちぎりの最下位(同5位の広島とも約1点の差)で、山下監督1年目とほぼ同じ最低勝率(.338)という惨状。その勝率を打率で遥かに上回った8年目の内川が大ブレイク。打率.378は、右打者歴代最高打率。また、村田が46本塁打で、2年連続ホームラン王獲得。打率も.323(114打点)、サヨナラホームランもありと、本当に本当に数少ない、横浜ファンが喜べるシーンを演出した。一方、石井琢朗が、石川雄洋へのレギュラー切り替えによる引退勧告に伴い退団(その後、広島へ移籍)。鈴木尚典も引退(通算打率は1517試合で.303)。そして、オフには相川がFAでヤクルトへ移籍、とチームを支えてきた主力選手が相次いでチームを去った。一方、阪神移籍濃厚かと思われた三浦(この時点で124勝)は、土壇場で横浜残留。なお、成績不振に伴い、解任の声もあった大矢監督だが、2年での監督交代が続いたこともあり、翌年も続投することに。
2009年 大矢明彦 〔3〕→ 田代富雄 6位 .354(-42.5)
不振による短期間での監督交代、という悪循環をなんとか断ち切ってほしかったシーズンだったが、開幕6連敗。その6試合の合計得点が5点というのが、チームの弱さを象徴していた。前年オフのWBCで負傷した村田が開幕に間に合わず。新外国人・ジョンソンも期待外れで、シーズン当初は出番のなかった佐伯がレギュラーに復帰するという状況(最終的に、ジョンソンは、打率.217、24本塁打)。開幕スタメンに抜擢された松本、その開幕で3安打を放った山崎も、一軍の戦力にはならず。仁志も開幕から不振で打率1割台。結局、5月中旬に大矢監督は解任され、田代二軍監督が監督代行に。二軍監督としては実績を残していただけに、少し期待をしたが、チーム状況はあまり好転せず。復帰してきた村田も、8月に再び故障。キャッチャーも、移籍の野口が機能せず、ルーキー細山田、前年に入団5年目で一軍初出場を果たした武山でなんとか補う格好。シーズン通して低空飛行のまま、2年連続、勝率3割台でシーズンが終わる。なお、田代監督代行は、再び二軍監督へ。
2010年 尾花高夫 〔1〕 6位 .336(-32.0)
ヤクルト、ダイエー、巨人の投手コーチとして実績を残してきた、尾花氏を招聘。その前年オフに就任した加地球団社長が、豪華クルーズ船にて、その就任を発表。巨人のコーチ契約が残っているところを巨人に頼み込んで獲得した人材だけに、今度こそ期待した。が、変わらなかった。投手陣の層が薄い中、開幕投手は、前年夏場に合流し5勝を挙げたランドルフ。しかし、敗戦を喫し、最終的には2勝9敗。前年、自身7度目の二桁勝利を挙げた三浦も3勝8敗(防御率7.23)。ロッテから移籍の清水直が、ただ一人二桁勝利(10勝)を挙げるも(ただし、防御率は5.40)、チーム防御率は前年より悪化(4.36→4.88)。打線も、日本ハムから移籍のスレッジ、新外国人のカスティーヨ、シーズン途中に獲得したハーパー、そこに村田、内川と一見強力に見えるも、「打線」としての機能度は低く、打率、打点ともにリーグ最下位。投打がみごとにかみ合わず、5位・広島に10ゲーム以上離されての3年連続勝率3割台での最下位に。そして、内川も横浜を去った。一方、シーズン終盤には、TBSから住生活グループ(現・LIXILグループ)への売却交渉のニュースも。フランチャイズの新潟移転なども報道されたが、最終的に交渉はまとまらず、翌年もTBSが球団を保有することに。また、この年限りで、ファームの「湘南シーレックス」のチーム名が廃止(再び「横浜ベイスターズ」の名称に戻る)。9月、そのシーレックスのユニフォームで、佐伯は横浜最後の打席を終え、退団。
2011年 尾花高夫 〔2〕 6位 .353(-27.5)
あまり、期待が持てる要素もなく終わった前年。その印象そのままに、この年も何も起こらなかった。数少ない新戦力だった森本も、打率1割台、48試合で、戦力にはならず。前年から加入していたキャッチャー・橋本は、一軍の出場すら無く。村田も、全試合に出場して打率.253、20本塁打。前年、ガクッと数字を落とした吉村も打率.200、5本塁打。チームの最多勝は、なんと高崎・三浦の「5勝」。山口が2年連続で30セーブを記録。藤江、篠原、江尻、大原慎(新人最多登板記録の71試合に登板)らの中継ぎ陣が奮闘した以外は、本当に見どころがなく、わずか8試合しか登板していない国吉ぐらいしか期待をかけられる先発投手がいない状況。そして、シーズン途中から報道されていたTBSからDeNAへの球団譲渡が、正式に発表される。球団名は「横浜DeNAベイスターズ」。尾花監督は解任(古葉氏、森氏に続き、指導者として評価の高かった人物の評価をまたも急落させることに)。GMには元日本ハムGMの高田繁氏が就任。その後、工藤氏への監督就任が報道されたが、実現はせず、ファンからしてみると、予想外の中畑清氏が監督に。また、9年間在籍した村田がFA移籍で巨人に。
2012年 中畑清 〔1〕 6位 .351(-41.0)
ファンの多くが、その監督としての資質に対し半信半疑だった中畑監督。しかし、キャンプ前から、その発信力はズバ抜けていた。12球団のなかでも、最下位層に位置していたチームの露出は激増。といっても、そのほとんどは監督だったが、キャンプでインフルエンザにかかったことが逆にニュースになったのには恐れ入った。親会社も変わり、名実ともに「心機一転」で臨んだシーズン。しかし、プロ野球の世界は甘くなかった。開幕カードの阪神戦こそ、1勝1敗1分けと競り合う戦いを見せたが、その後は6連敗で、広島戦では前田健にノーヒットノーランを喰らうおまけつき。巨人相手には、シーズン4勝17敗という惨敗だった。打線では、巨人を退団したラミレス、シーズン途中の加入となった中村紀が、年齢を考えると十分な働きを見せたが、その他が機能せず。2年目の荒波がレギュラーを獲得するも、ショートのレギュラーとして期待した梶谷は打率1割台でエラーも連発。チーム打率、チーム防御率とも最下位で、5年連続して勝率4割未満の最下位に。阪神・金本からは、自身の引退試合にもかかわらず、チームの目立たなさを指摘される体たらくだったが、それでも、チームフロントの取り組みに「変革」の動きは見て取れる1年に。ホーム最終戦での、まるで選挙演説のような、見事な中畑監督の挨拶に希望を託し、次シーズンへ。
2013年 中畑清 〔2〕 5位 .448(-23.0)
これまで、牛島監督、大矢監督(2度目)と、前年からのステップアップの構想が見事に崩れ、惨憺たる成績に終わった、監督2年目。ただ、その2人のときとは、シーズン前からちょっと様相が変わっていた。中日から、ブランコ、ソーサというバリバリの主力を獲得(加えてソトも)。これまで、外国人選手・FA選手とも、成績が下り坂の選手を獲り、まったく戦力にできなかった歴史を考えると、これだけでも雲泥の差だった。さらに、MLBのレギュラークラスのモーガンを獲得。また、川村(97年入団)以来、結果として即戦力投手を獲得できていないなか、三嶋・井納と、1年目から活躍できそうな投手を獲得。実際、シーズンに入っても、ラミレスの不振という予想外の事態はあったものの、ブランコが開幕から打ちまくって打線を引っ張り、中村紀も好調。その後、序盤は絶不調だったモーガンも打ち始め、さらに打線に厚みが。またディフェンス面では、巨人から前年復帰した鶴岡が、層の薄い投手陣を、苦心のリードで引っ張り、打撃でも8番打者ながら40打点と貢献。ヤクルトの投手陣が崩壊したこともあったが、6年ぶりに最下位を脱出。また、前半戦、守備でボーンヘッドをやらかした梶谷が、一軍復帰した8月から打ちまくる。8月だけで8本塁打の打率4割超え。最終的には、約2ヶ月で16本塁打と、「鮮烈」という言葉すら生ぬるいほどの爆発を見せる。「このまま行けば来年は…」という思いを、久々に抱き、シーズンは終了。
2014年 中畑清 〔3〕 5位 .472(-14.5)
選手の移動としては、前年活躍を見せた外野手・モーガンとは契約せず、オリックスから内野のバルディリスを獲得。その他、先発投手としてモスコーソを獲得。また、FAで、阪神から久保を獲得。ドラフトでは、柿田・平田・三上の社会人トリオには即戦力の期待も。不安より期待が大きかった開幕だが、いざ蓋を開けてみると、序盤からつまずく。内容的にも、開幕投手に起用した三嶋の2回9失点KO、巨人戦での大逆転負け、そしてバントの一塁カバーの送球無視など、ショックの大きい負けが続く。3・4月の勝率は2割台。それでも、「新生・横浜」は、ここから持ち直した。打線の方が前年から一転、リーグ最低打率となるものの、投手陣で、移籍の久保が柱となる活躍。そして2年目・井納が飛躍を遂げ、最終的に11勝。そして、モスコーソが、横浜球団としては90年代以降初めてといっていい、シーズンを通して勝ち星を計算できる先発ローテ投手としての活躍。さらに、抑え失格となった山口の先発転向が、見事にはまる。先発ローテ4人以上が確立するという状況は、それこそ過去30年のなかで、98年ぐらいしかない(川村・三浦・野村・斎藤隆(・戸叶))チームにとっては、ある意味、異常事態(この状態(もっと言えば、ローテ6人の確立)が正常の状態と思えるようになったときが、チームが強くなるときだと思うが)。ソーサの不振→ルーキー三上のストッパー起用という、緊急対応はあったが、“戦える状況”は徐々に整う。5年目・筒香、外野に転向した8年目・梶谷も、レギュラーに定着。ただ、鮮烈なデビューを見せたグリエル、四番・ブランコの度重なる離脱もあり、最後、クライマックスシリーズ出場は逃す。センターラインの強化、セットアッパー・ストッパーの確立など、課題も残った。それでも、97年以来、十数年ぶりに、手ごたえを残してのシーズン終了。
ということで、32年間をざっと振り返ってみました。
正直、書き足りない小ネタもたくさんあります(石橋貢の1試合3本塁打。青山(その後、守備走塁コーチ)の数少ない巨人戦での大活躍。アレンに追いかけられる大門。若菜の「脇の下」挟みタッチ。渡部高史のオーバー過ぎるガッツポーズ。魔神になりきれなかった横山・小桧山。欠端、宮里、渡辺直らのいぶし銀の存在。2013年の三度の7点差逆転勝ち etc)。
また、古くからのファンの方には、関根監督以前のことを書いてほしい思いもあります。
いずれにせよ、2015年シーズンは、まだ全体の2割を過ぎたばかり。
個人的には、この32年間のどの年とも似ていないと思う今年。
そのシーズンのまとめは、充実感を感じながら書きたいところです。
大洋・横浜18年史時代の読者です。
ホームページがなくなってしまって残念に思っていたのですがこちらに移転していたのですね。
横浜CS進出がうれしくてじっとしていられず今回コメントしてしまいました。
今年の横浜(横浜時代からのファンなのであえて横浜と呼びます)は
1997年あたりと状況が似ているように思うのですがいかがでしょうか。
親会社が変わって,本当に横浜を強くしたいとフロントが思っていて,
血の入れ替えと選手の意識改革,
96年は序盤の快進撃が嘘のような後半戦の低迷,けれども
翌97年は鈴木選手の覚醒と投手の整備がかみあって躍進,
首位には引き離されてしまったけれどAクラスで戦い続けるという
信じられないような展開だったと記憶しています。
まだ今シーズンは終わっていませんが,選手たちの士気の高さを考えると
今後がとても楽しみです。
ホームページの時から見ていただいたとのことで、すごく嬉しいです(当時は「もみあげハウス」という名前でやってましたね)。
ホームページについては、やめるつもりは全然無かったのですが、プロバイダーが変わって、更新方法がわからなくなってしまったため(^^)、自然消滅してしまい、こちらのブログで書くようになりました。
また今後とも、よろしくお願いいたします。
確かに、「チームにいい流れが流れている」という意味では、97年に似ているかもしれませんね。
一方で、97年と違うのは、今回は「投」の部分からチームを作っているところかなと思います。
97~98年も、権藤監督(コーチ)の就任で「投手力」が大きく改善されたことが優勝へとつながりましたが、総体的には「打」の比重が大きいチームでした。今回の3位までの道のりをみると、ドラフトでの投手獲得策含め、チームとして、かなり「投」の部分に力を入れていることが伺えます。
もう一つの違いは、DeNAになってからは、今まで「横浜」というチームに興味の無かった人たちに対して、かなり積極的なアプローチをしているというところでしょうか。
いずれにしても、現在のチームは、理想のチームからすると、まだ途上の状態だと思います。現在の士気を維持しつつ、さらに魅力的なチームになっていってほしいですね。