小池の涙
2013年 10月 07日
時を同じくして、例年同様、各球団の戦力外情報、そして引退のニュースがかけめぐった、この2週間でもありました。
横浜DeNAからも、戦力外通告含め、来季、横浜ではプレーしないことが発表・報道された選手が数人。
そこには、ラミレス、森本といった実績のある選手も含まれています。
そうしたなか、横浜から中日、そして昨年また横浜に戻ってきた小池正晃選手が引退会見を行いました。
会見の一部は「プロ野球ニュース」でも放送されました。
最初は淡々と話していたようにも見えた小池選手でしたが、「レギュラーというレギュラーを獲れないまま、15年、自分のなかではよくできたな……」と言った後、言葉に詰まり、その目には涙が。そして、しばらく沈黙が続きました。
高校時代、あの松坂大輔を擁し、甲子園春夏連覇を果たした横浜高校の一番打者として活躍した小池。
ドラフト6位で入団した横浜での一軍初出場は、3年目の2001年。
一軍に定着したのは、さらにそれから4年後の2005年でした。
この年から就任した牛島監督のもと、5月末頃から2番に定着。37犠打を記録する一方で、20本塁打を放ち、4年ぶりのAクラス入りにも貢献(自身初の規定打席にも到達)。
打率は少々物足りなかったものの(.243)、小技もでき長打力もあるバッターとして、次の年は更に飛躍するかと思われました。
しかし翌2006年は、出場試合数、打席数とも減少(129試合→112試合、492打席→417打席)。本塁打も20本から7本と大きく減りました。犠打数こそ37犠打→39犠打とほぼ同じ数字ではありましたが、「スケールの大きな、横浜の主力打者に」という期待は翌年以降に持ち越しとなりました。
ところが、大矢監督に代わった2007年、その出番はさらに激減します(417打席→126打席)。
チームの順位の割には外野手の競争が激しいというチーム事情もあり、翌2008年になると、開幕から一軍の出場機会すらまわってこなくなりました(この年は、オリックスから移籍してきた大西が活躍した年でもあった)。
3年前から状況が一変。完全に埋もれてしまった状態となったのですが、6月に石井裕也とのトレードで中日への移籍が決定します。
このニュースを聞いたときは、ナゴヤドームということで、よりその守備力を生かせる環境になると思いましたし、若手があまり育ってきていない中日のチーム事情を考えると、再びレギュラーをつかめる可能性は大いにあると思いました。
しかし、その中日での4年間。
日本シリーズ含め、時折いい働きを見せることはあったものの、レギュラーをつかみとることはありませんでした(一番多い出場は2009年の101試合(201打席))。
そうしたなか、昨年、FAにより横浜に復帰。
再びレギュラーもしくはそれに準ずる活躍をしてくれることも期待しましたが、前回の横浜在籍時と同じく、順位の割にはポジション争いが激しい外野陣のなか、出場88試合、打率.192、3本塁打という結果に終わりました。
もともと打率が高いバッターではないとはいえ、正直、復帰後の小池の打席には、以前よりもヒットを打てる可能性を感じることができませんでした。
迎えた2013年、メジャーでの実績があるモーガンの加入、さらに多村の復帰という要素が加わったなか、小池の置かれた状況はさらに厳しいものになると思われました。
そうした環境を逆に力に変えて、輝きを取り戻すことも期待しましたが、キャンプで見た打撃には、前年同様、あまり可能性は感じられませんでした。
その後、シーズンに入っても、二軍でも2割を少し上回る程度という低い打率。ラミレスの不調、モーガンの不振はあったものの、金城の復活、松本の台頭、さらには井出の好調などもあり、一軍出場の機会は訪れず。
さらに6月に入ると、モーガンも打ち始め、いよいよ厳しい状況に(小池だけでなく、前年に比べ、森本、下園の一軍での出番もめっきりなくなった)。
そうして迎えた8月も終わろうとする8月27日、ついに2013年初となる一軍登録を果たします。
決して二軍で好成績を残しているとはいえない状況での昇格ではありましたが、正直、これがラストチャンスかなと思いました。
その後、12試合に出場。スタメンにも4試合、名を連ねました。
しかし、そこで目に見える結果を残すことはできませんでした。結果だけでなく、その内容も、見るからに「打てないだろう」と思ってしまうような寂しいものでした。
今季初の一軍昇格から3週間後の9月19日、小池選手は一軍登録を抹消されました。
それから1週間半経った10月1日、小池選手への戦力外通告の報道がありました。
今年で33歳。正直、2・3年前には、今季移籍してきた同じ横浜高校同級生の後藤よりも早く現役を終えるとは思いませんでした。しかし、これがプロ野球の現実なのでしょう。
冒頭に挙げた会見での涙に戻りますが、その姿を見たとき、果たしてどんな気持ちから出た涙だったのだろうと考えました。
その言葉通り自分に対して「15年間よくやってきた」という思いからの涙だったのか、「もっとできたはずだった…」という悔しさから出た涙だったのか、それとも少年時代から自分の生活のほとんどを賭けてきた「選手としての野球人生」が終わることへの寂しさの涙だったのか…。
正直、一ファンとしては「もっと活躍できたのでは」という思いも拭えない小池選手。
しかし、プロ入団前の球歴を考えると、実はプロ野球選手のなかでもトップといっても過言ではない選手でもあります(ドラフト指名順位は下位ではありましたが)。
その選手が、3年目にようやく一軍の試合に出ることができ、さらにそこから4年かけてようやく「一軍の選手」として出られるようになり(一軍初出場後の試合数の推移は19→60→9→9→129)、最終的に規定打席到達1度、810試合出場(今季最終戦も含め)というキャリアを残し、引退会見で何とも言えない涙を見せる。
その涙に、プロ野球という世界の「凄さ」と「深さ」、そして「怖さ」を感じました。
(2013.10.10 追記)
10月8日に行われた引退試合。その試合で、小池は勝ち越しの2ラン、そして現役最終打席では松田のストレートを思いっきり引っぱたいて、この日2本目のホームランをレフトスタンドへ叩き込んだ。
この2発を見て思わず「まだできるのでは?」という言葉を口にしそうになる。しかし、プロ野球という世界を実際に経験した人は別として、その「凄さ」、そして「シビアさ」を肌感覚で知らない人間がその言葉を口にするのは逆に失礼にあたるのではと思った。
なお、小池の引退に関して、戦力外通告から引退までのことについて、スポニチに記事が載っていた。
現役を続けるか迷った小池は、後藤、そして横浜高校の先輩でもある多村に相談。「今の打撃では厳しい」と言われた。
「言う方もつらかったと思う。でもおかげで踏ん切りがついた」という小池のコメントが紹介されていた。
同じく小池について書かれたNumber Webの記事(文=中村計)では、以前、小池と話をしていたときには「引退したら、実家のお茶屋を継ぎたい」という話が出たそうだが、新聞報道によると、横浜の二軍打撃コーチに就任予定とのことである。
一方で、中畑監督は留任となったものの、今オフ、横浜のコーチ陣はかなりの入れ替えがある模様。
小池の引退試合と同じく8日に放送されたTBSのプロ野球を辞めた「元プロ野球選手」を追った番組では、選手引退後もコーチとして13年間のキャリアを務めた西岡良洋が現在は焼肉レストランを切り盛りしている姿、また引退して12年経った高橋智が現在はプロ野球とはまったく違う職業に就いている様子などが紹介されていた。
プロ野球とは、改めて「人」がやっているものだということを思い知らされる。



























